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徳川家臣の登用

徳川家康が天下を統一出来た影には、家臣の存在を抜きにしては語る事が出来ない。
家康は、如何なる手法で家臣を登用または、配置していたのか。
譜代家臣・今川氏と武田氏の遺臣登用について紹介してみる。

譜代家臣の登用

徳川家臣団は三河譜代を中心に今川・武田・後北条氏の遺臣や尾張などの中部地方の土豪達によって形成され
やがて彼等は江戸時代に於いて、譜代大名や旗本の基盤となった。
永禄二年に家康は「七カ条の定書」を発布し、岡崎の家臣達に対して
公示裁許については今川の家臣に申し出る事を指示している。
そして、徳川氏の領国軍事態勢の一つに、譜代上層による支城配置と城付知行の設定を行った。
この当時、遠江の今川氏支城が落城し城主の入れ替えが行われている為の措置であるが、
その設定について簡単乍ら説明してみる。

注:「〜譜代」とは?
「岩津譜代」:三代信光の時に服属した家臣団の事。
「安城譜代」:三代信光・四代親氏・五代長親・六代信忠に服属した家臣団の事。
「岡崎譜代」:七代清康・八代広忠・九代家康に服属した家臣団の事。
「三河譜代」:家康が三河統一の際に貢献した家臣団の事。本願寺の門徒が多いのが特徴。

今川氏滅亡の後、徳川氏に仕えた旧今川家臣に対しては、彼らが従来保持していた土地を今まで通りに保証していた。
反面、その家臣が降伏を拒否しなかった場合には、徳川氏の庶流・譜代家臣武将を配置した。
井伊谷(いいのや)三人衆や高天神城主、小笠原長忠や菅沼忠久が前者で、
石川家成や大久保忠世などが後者の例である。
従って、遠江の支配は、武田勝頼から高天神城を奪取した以降、徳川氏の完全支配下に置かれる事となった。
この方法によって、新たに城主となった徳川氏家臣団の中に、在番(城番・定番)の職務についている者も居た。
井伊谷三人衆がそれに就き、武将が与力・同心を率いて一時的に支城に駐屯していた。

数年後、徳川氏は駿河・甲斐・信濃を自国領国支配下の手中に収め、先述の支城制を新領国で採用する事で
更なる軍事強化を推進していたが、秀吉との戦い、即ち、小牧長久手の戦いでは、支城配置が若干異なる。
三河の岡崎城や遠江の浜松城など、重要要地に当たる地域や城には三河譜代の徳川の家臣一色に配置させたのである。

重要地域に三河譜代家臣団を配置する事で、岡崎・浜松・駿府などの城を通じて、軍事強化を行うと同時に、
支城・本城単位で軍事的な構造を備える事を可能とさせたのである。
これにはまた、軍事力の要である与力・同心の給地も城領に配置される以外にも一方では、
兵糧米を提供する蔵入地にて夫役を負担する農民も含まれていた。

支城駐屯に任ぜられた上級家臣には、与力・同心を引き入れたり、
旧城主の家臣や浮浪人までも集める事もあった。これを「城付知行」と言う。
城付知行は城に付属されたものなので、城主が変化すると新城主に付けられた。
城付知行として行われた他の土地も蔵入地として見なせられ、
城主の給人にも代官職として仮に置くのも、城付知行制の特徴である。

旧領国経営方式を新領主として徳川氏が領国統一を行う為に、再編成をしていたが、
主城である旧領国大名と家臣団の駐屯が不可分の状態のままであった。
そこで、軍事力を以て家臣団の掌握をする事で、大名を強制的に措置すると同時に
家臣団大名の軍役の一つでもある、城への駐屯を重要視していたのである。

家臣団の在番制の採用も一族や譜代家臣から始められ、最終的には外様家臣である国人に行き着いていたが
これは、当時、上層部の家臣以外には、在地給人の気が色強く、知行地支配から逃れていたからである。
在番が何時(いつ)から行われていたのかは、不明であるが、清康の頃から在番の存在が確認されており、
広忠が家臣に殺された当時には、鳥居忠吉・石川康成等の家臣が出仕していた。

一般的に「岡崎衆」と呼ばれる譜代家臣は、岡崎で在番をしていた者達を指すものと思われる。
家康以前の時代から在番の存在が確認出来るが、松平宗家が宗主権を完全に得ていなかった故に
在番制は不安定極まりなかった。最も家康が岡崎に帰還した以降から、在番制度も確固たるものと化した。

この当時の譜代・一門大名の屋敷は、岡崎城の郭内を中心に配置されており、
下級家臣は城下の諸村内に在中していた。
徳川氏の遠州侵攻以降になると、徳川氏に帰属した新しい家臣の在番が確認出来る。

それを裏付けるものとしては、例えば、浜松城の曲輪には、本多重次などの譜代家臣屋敷以外にも
井伊谷三人衆や山方三人衆など今川の有力な家臣の屋敷跡も合わせて、確認出来る。
また、岡崎・浜松では馬廻衆を中心とした交代制で、徳川家臣団の在番が行われていた。
本城在番制度が制度化される事で直属家臣団を中心とした大番制度の軍制が次第に確立され
江戸幕府が成立した後に全国各地の定番制の基本にもなった。

今川遺臣の登用

国人・国衆と称される地方領主階層の人間が、どの様に家臣化されたのたのか。
三河に土着していた吉良・荒川氏などは最後まで徳川氏に楯突き、一向一揆の敗北によって、逃走をした。
一方、牧野氏は、徳川氏に帰属して三河譜代に参入されたので、譜代と国衆との区別は
家康の三河統一以降、見られなくなった。

今川氏の家臣の様な三河以外での新領国給人達への家臣化は、基本的に城主レベルの給人に対して
接する事で彼らの同心達も自動的に支配下に置く事だった。
故に、彼らの望み通りに主張していた本領安堵や失った領地の安堵などを認める程の寛大な措置を執った。
この方法は、他の戦国大名にも見られるが、徳川氏の場合には
今川氏の支配権力構造を認めつつ給人方法を踏襲した点である。
しかも、今川氏滅亡によって半ば廃止状態に陥っている、寄親・頼子制度の回復にも尽力していた。

これにより、旧今川家臣の宗主権を認めながら、徳川との服従関係を強化し
更には領土までも安堵しているのである。今川の上級家臣に対しては、この様な措置を執ったが
在地の少領主として既に自立していた、中小給人の場合には、徳川譜代の同心・与力の中に編入させた。
遠州地域の家臣団化には、本領安堵や彼らの地位保証そして、徳川への忠誠関係を強固たる方向性を執ったが
今川支配権力を根底から覆る行為は、行わなかった。

武田遺臣の登用

徳川氏のよる旧武田領の領国化政策は非常に、気を遣ったものだった。
武田遺臣には大きく三つのカテゴリーに分けられ、
一つは、海賊衆とその他、二つには同心衆、三つには、武川・九一色衆・西ノ海衆によって
武田の家臣団構成がなされていた。
武田の同心衆は、御家人衆として所有・保有土地を持ち村落レベルでは、指導者的な立場であった。
これは、今川氏の同心衆と本質的に同様のものだった。

家康の武田家臣の家臣化政策は、多くの譜代家臣を奉行衆として本領安堵を行い
更に甲斐郡代となる甲斐統治奉行を設置した。
奉行には、平岩親吉・成瀬正一・日下部定好が任ぜられ、
武田の遺臣で目付の市川昌忠・工藤善盛・岩間大蔵左衛門も郡代職に任命した。
これも武田の甲斐統治の体制とほぼ、同じである。
武田家臣の上に徳川の家臣奉行が存在しているものの
甲州給人への統制方法は武田のそれと変化しなかった為、領国内の統制もスムーズに展開した。
今川のと同様に領国統制を変化せずに、徳川の支配を行ったので、無理なく徳川の支配力が浸透していた。

甲州における知行地の認定も驚く程、寛大なものだった為
徳川氏との従属関係が強くなったのは、言うまでもなかった。
知行地と共に徳川氏の軍事的指揮系へ甲州給人を編入させたのは
これも今川のと同様、寄親・寄子制の制度化だった。

甲斐の同心が井伊直政を寄親として付けられた後、直政は家康の期待に応える形で
三河譜代の家臣として多くの武功を上げた他に、武田の奉行衆としても大いに活躍した。
この後、武田の同心衆がそのままの状態で、直政に付けられ、更に徳川の家臣として統合させられたのである。
その寄親が徳川家臣になったのは、三名でこれによって徳川氏が甲斐を領国化したあと、
武田氏の寄親・寄子制度を再編成する事で、在地系給人層まで軍事的な支配下にする事が可能となったのである。

また、甲斐の辺境武士団の多くは、徳川氏による甲斐への進攻によって、一時は逃亡したが
後に他の甲州武士と共に本領安堵させられているのである。

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