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筒針小栗家は浄土真宗信者

十六世紀初頭に於ける小栗家は、如何なる活動をしていたのだろうか。
天文六年、小栗家の人物が妙源寺に領地を寄進していた。

永代寄進申田地之事
 合弐斛者、在所別所下
右彼田地者、祠堂銭拾貫借用候処、廿貫余ニ罷成候、
依難返弁、為新寄進、永々寄進仕候、同名・親類並、
違乱煩有間候、仍如件、
                小栗三郎五郎
  天文六年丙(丁)酉十二月日 忠親(花押)
桑子明眼寺殿
      参

※「妙源寺文書」『新編岡崎市史6 史料古代・中世』より

小栗忠親が常陸小栗家出身かそれとも初めから三河に土着していた小栗家の
出身であるかどうか不明である。
祠堂銭十貫を借りていたが、二十貫を返す事が出来ないので
代わりに自らの田地二斗を妙源寺に寄進している内容の寄進である。

妙源寺は浄土真宗(以下「真宗」と略す)系の寺院であり、寺派は「高田専修寺」である。
三河地方に於ける真宗布教の拠点となった妙源寺は当初、布教のターゲットを
地元の農民のみとしていたが、本願寺派の寺院に対抗すべく地元の有力武士に布教を行った。

結果として布教が武士に浸透したのだが、その結果は天文年間に妙源寺への寄進者を
見れば一目瞭然である。

表:天文年間に於ける妙源寺への寄進内容

寄進年:寄進者名寄進した土地の内容 寄進年:寄進者名寄進した土地の内容
元年十一月十日:
長坂与次守親
三反・山一所 三年八月九日:
池端右京進光吉
畠一反
四年十二月十三日:
牧内右京進入道源久
畠七ツ 五年六月十二日:
長坂源七郎忠重
細田
天野七蔵久治田地六斗目 六年七月十五日:
平岩平三郎信康
田一反
六年十二月一日:
小栗三郎五郎忠親
二斗 七年二月六日:
小栗三郎五郎忠親
二斗
七年三月五日:
松平甚太郎康忠
畠八反五ツ 十一年七月二十六日:
筒針孫太郎重基・同九郎左衛門信光
田一反六斗・畠一反八百
十三年二月二日:
松平広忠
田一町二反 岡崎市場九郎衛門不明
十五年十月一日:
平岩藤五郎清忠
一反 十六年二月十五日:
板田四郎兵衛末次
七斗目
十六年七月十七日:
平岩彦太郎・同源三
二反 十八年十二月一日:
都筑小三郎信康
屋敷一所
十九年六月十日:
松平甚次忠吉
畠一反 十九年八月二十二日:
荒河忠勝
屋敷
二十年三月二十八日:
島田弥六広正・佐賀利式部丞綱秀・
大垣藤大夫忠良
一町

※「妙源寺文書」『新編岡崎市史6 史料古代・中世』所収と『岡崎の歴史』を参考にして作成。

寄進表の中に小栗家の名前も確認出来る事で、三河小栗一族が浄土真宗の信者である事が分かる。
所で十一年に筒針孫太郎となる人物が妙源寺に寄進しているが、この人物の詳細は全くの不明である。
ただ「筒針」の姓を関している所を見ると、筒針小栗家と何らかの接点を持つ可能性は
充分にある。

「専修寺」派は着実に布教の成果を上げていたが、やがて、蓮如の三河布教によって
寺派勢力が衰退への傾向に辿る。

何れにせよ小栗家は真宗の信者であるが、後に三河一向一揆と戦う事になる。
しかも本多家の様に一族が分裂した形跡もないのが、実に興味深い。
一向一揆に於ける小栗家の動向は後々に記述してみる次第である。

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