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常陸小栗氏について

三河の小栗氏は元々は常陸国の小栗保に拠点を構えていた一族である。
その出自は古い歴史を有しているのもの、一族が常陸を捨てる様は
時代に翻弄された成れの果てであった。
小栗保は現在で言うと、茨城県協和町にある地名。
栃木県にほど近い位置に接している場所である。

ここでは簡単乍ら常陸の名族だった小栗氏が何故、
三河へ入部する事に至ったのか、簡単に説明してみよう。

全ては高持の下向から始まった

桓武天皇の曾孫である高持王が「平」姓を賜って臣家に下ったのは周知の通り。
九世紀後半頃、東国の上総国(千葉県)の国司として赴任した。
国司の任期は四年と成っていたが、高持はそのまま終始、上総に土着した。

高持は都での出世を望んではいなかったそうだ。それは彼の父親である、高見王が都で無位無冠であった所為だろうか。
意外な事かも知れないが、例え皇族が臣家に下って必ずしも出世出来るとは限らなかった。
現に百人一首の歌人にもこの様に下った皇族が存在したが、彼等も出世が遅かったり、
又は、恵まれない官位に終始する者も少なからずの状態だった。
何せ「偉くなりたい!」と云う事で天皇に歌を献上した人間も居ましたから。

さて、高持は「国司」と云う職務の権限を大いに活用して上総を中心に自身の勢力を拡大させた。
その勢力は、五人の息子の時代に入ると上総以外にも下総や常陸にも及んだ。
この状況下に、かの有名な将門が登場する。

将門は高持の孫にあたるが、将門の遣り手の上手さに、多くの農民が彼の領内に入った。
その結果、将門に嫉妬した叔父、国香や良兼達(高持の息子)は、将門と戦争(勢力争い)を起こしたが、将門の前に悉く敗退した。

しかし悲しい哉。人の上に立つと人の性格が変わるのは、将門も同じ事。
叔父達の勢力を退けた将門は、武力で関東一円を制圧し、その破竹の勢いは京まで攻めるのか、と思わせる程のものだった。
何でも天皇に代わる「新皇」と称した程でしたから。

折しも西国では、藤原純友が瀬戸内海で海賊を率いて此方も京へ間近に迫る勢い。
万事を尽くした朝廷は、先ず、将門を討伐する事を最優先とし、追討を下野の豪族、藤原秀郷に命じさせた。
そこに将門の従兄弟である貞盛が彼に協力し、結果として将門は敗死を喫した。

将門の乱を平定した貞盛は弟、繁盛の息子である維幹に跡を継がせた。
維幹は常陸大掾として彼の地に留まり富国政策に徹した。

さて時代は平安時代末期頃、維幹の曾孫である重家は、
小栗五郎と称した事でここに常陸小栗氏が誕生した。
小栗氏は関東平氏宗家から分家した一族なのである。
時を同じくして重家は、伊勢神宮に自らの土地(小栗郷)を寄進している。
この地は後に「小栗御厨(小栗保)」と称された。

鎌倉時代に入ると常陸小栗氏は源頼朝に仕え、代々、鎌倉幕府の御家人と成った。
この居住時代以降、先述した小栗御厨に屋敷や城を構え、更なる繁栄があった。

常陸小栗一族の転機「上杉禅秀の乱」

南北朝時代、小栗氏は北朝側の味方となり、本拠地小栗城をめぐって南朝側と激戦を展開させた。
ところが室町時代に入ると、鎌倉公方に所領を削られるなどの不満を持つ様になる。
そこで鎌倉公方である足利持氏によって関東管領を辞された、上杉憲実(禅秀)と与する事となる。

禅秀は、小栗と同様の不満を持つ、佐竹氏など関東の武士を味方にし、
そして、持氏の叔父である満隆を鎌倉公方に擁立させる事を目論んだ。

上杉氏は鎌倉公方を補佐する関東管領の職に就いていたが、氏憲は鎌倉公方である足利持氏との色合いが悪く、
彼は管領を辞職するハメに陥った。氏憲は、出家し禅秀と名乗るが、持氏の叔父である光隆と結託する事で持氏の討伐を試みた。
しかも、室町幕府四代将軍の足利義持の弟君である、義嗣にも自分達に与する様に要請をした。

禅秀は、光隆が甥の持氏が関東管領に就任した事に対する不満、将軍義持と義嗣との折り合いが悪かった事、
そして、関東の武士が室町幕府に対して不満を持っている事を上手く利用したのだった。

そんな禅秀の呼びかけに関東の武士が集合した。
その中に当時の小栗城城主である、小栗満重の姿も確認出来る。

禅秀の軍勢は鎌倉の持氏邸を強襲した。
持氏は伊豆方面へ逃走し、禅秀や光隆によって鎌倉は一時期占拠された。
彼等は新しい鎌倉公方の樹立に成功したのだった。

しかし、将軍義持が、禅秀の後ろ盾に自分の弟が居る事を知ると、
弟を寺に幽閉させた後に殺害し、そして軍勢を鎌倉に送った。
結果として、禅秀と光隆は敗死した(一四一六年)。

これで禅秀の乱は収束したかに思えた。禅秀側に味方した満重はこの時、何のお咎めを受けなかったが、
渋々、鎌倉公方に仕える事と成った。しかも持氏は性格的に問題のある人物。
義持の弟君で六代将軍に成った、義教を「還俗(僧が普通の人間に戻る事。義教は元、僧である)将軍」と子バカにする。
更にかなりヒステリックな気質もあったそうだ。

そんな持氏に対して満重は再度、挙兵した。
満重は、小栗城に籠城し持氏と戦ったが、これも敗北に喫した。

 けれどもこれで諦める満重では無かった。翌年、何と三度、挙兵をした。
仏の顔も三度までと言うべきか、持氏は
「あの楯突く小栗を討伐せよ!」

と見方の武将に命令を下した。持氏側の武将は再度、小栗城を攻撃した。
この戦いで満重は小栗城共々灰燼に帰した。こうして、平安時代末期から続いていた、
常陸小栗家は一時期、本拠地を失った(一四二三年)。

そして、足利成氏との戦いで…

或る史料によるとこの戦いで、満重は自殺したそうだが、別の史料では三河に逃亡したとされている。
私的には、満重は自殺した可能性が高いのでは、と思う。
さて、満重の息子である助重がこの後に登場し、小栗の地を再度、奪還している。

持氏と義教はやがて対立を深め、義教は持氏討伐の命令を下した。
この時に息子、助重が討伐軍に参加している。
幕府によって持氏が討たれた後、助重は何とか小栗の地を戻す事が出来たのであった。

これを傍観していられないのが持氏の遺児、成氏である。
彼は持氏の子息の中で唯一生き残った人物であり、
小栗一族を討伐する事を少なからず考えていた。

その様な矢先、成氏との戦いで敗北した上杉持朝が助重を頼り、
助重と共に小栗城に籠城した事で、成氏は、小栗城を攻撃した(一四五五年)。

この攻撃により、小栗城は完全に落城し、小栗御厨も失う事となる。
助重は、先祖代々の本拠地を失い、二度と小栗の地へ復帰出来ない程のダメージを食らった。
傷心の助重は他の小栗一族を集め、こう述べた。

「祖父、重弘が三河に采地(領地)を持っている。そこの一族に頼ろう。
しかも、三河は室町将軍家に深く関連している人間達の領土だから、安心出来るだろう」
※注:基重は足利尊氏に仕え戦功を得た結果、三河に采地を有する事に成る。
その息子である重弘にも采地を与えている。

こうして、助重は、常陸から三河へ落ち延びる事と成った。
助重の他に従兄弟の重定等他の小栗一族と共に、
長年親しんできた本拠地を後ろに見乍ら、西へ向かったのだった。

助重は俗に歌舞伎等で有名な「小栗判官」のモデルとされている。
これは勿論、伝説なのだが、簡単乍ら触れてみよう。

『鎌倉遺文』での小栗判官前伝説

乱を起こした満重は三河へ落ち延びた。

その息子、小次郎(助重)は密かに関東へ潜伏していた。

彼は相州(神奈川県)の権化堂と云う所で、盗賊が集まる場所に宿を求めた。

所が宿の主人は、小次郎が実の所、常陸で裕福な人間で有る事を聞いていたので、
何とか彼を殺そう考えた。けれども、彼の元には屈強な従者が居る、どうやって、殺すか。

そこで一人の盗賊が「杯に毒を盛れば良いのです」と提言し、
その晩、遊女が集う宴席で小次郎を振る舞った。

この事実を知った遊女の照手姫は小次郎が殺されるのが可愛そうと思い、
小次郎に酒を注ぐ時に「このお酒には毒が盛られています。飲まないで下さい」と言った。

それを聞いた小次郎は飲む振りをした後、寝たふりをした。
他の盗賊達も酒を飲んだ後、寝てしまった。

小次郎は盗賊が寝ている隙に外に出てみると、立派な馬が繋がれている。
この馬は性格が荒い馬なので、盗賊達は持て余していた。
けれども小次郎は馬術の名人だったので、少々のお宝を持って、
その馬に苦労もせずに乗り込んで逃げた。

そして、藤沢の道場に着いて、そこの上人(格の高い僧)に事情を説明した所、
上人も哀れんで時宗の僧を二名付けて小次郎を三河まで送った。

目覚めた盗賊達は、毒を飲んだ家来と少し酔っていた遊女達を川に沈め、
お宝を盗んだ。
小次郎の行方を捜したものの彼は見付からなかったので、
盗賊達はその晩に去ってしまった。

一方、照手姫は毒を飲まなかったので、
川の流れに沿って川下から上がってきて逃げる事に成功した。

無事に三河へ入部した小次郎は照手姫の行方を捜し、
見付けた暁にはお礼のお宝を授けた。

そして、小次郎を殺そうとした盗賊達を全て懲罰したのだった。
この子孫は、三河に住んでいるとの事である。

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