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近世期の小栗一族について

江戸時代に活躍した小栗一族の人間について紹介。

小栗信吉 −のぶよし−(1589〜1661)

名は正信とも・通称:二右衛門

忠政の次男で幕臣。「小栗流」の始祖。
大坂の冬・夏の陣で活躍する。

彼は武芸家としてその名が高く、後に「小栗流」と称される和術を編み出した。
門下生が数多く居たそうだが、その中に山鹿素行の存在があるのも興味深い。
山鹿素行は言うまでもなく、赤穂浪士討ち入りのリーダーである大石良雄の師である。
間接的とは言え、赤穂浪士に対しても小栗の人間が関与している事になる。

この小栗流は土佐藩で主流の和術と成り、それは幕末まで続ている。
坂本龍馬も二十歳の時に小栗流の免許皆伝を会得している。

小栗正矩 −まさのり−(1626〜81)

通称:美作

小栗正高の嫡男。彼の直接の先祖は小栗判官のモデルと思われる、助重に繋がる。即ち、常陸小栗家宗家の一族である。
助重の子孫である正重は、徳川家康に仕えた後、家康の次男である結城秀康(ゆうきひでやす)と共に越後に入部する。
以来、小栗家は秀康を祖とする越後高田藩の家老職に就く。

一六六五年に越後地方を襲った地震により、父正高が死亡。
その後を継いだ正矩は約十数年間に渡って、高田の復興に努めた。
結果として町の復興は当然の事乍ら、積極的な新田開発・経済向上など様々な政策を行い、高田藩の石高を約十万石を上昇させるに至った。

しかし、正矩の働きに対して、他の家臣や藩主松平光長(まつだいらみつなが)の弟である
永見大蔵(ながみおおくら)の嫉妬を買う事になる。
やがてその嫉妬は、藩主の継嗣問題が絡んだ所謂「越後騒動」に発展し
一六八一年に将軍綱吉の命令によって切腹させられた。

彼も忠順と同様、時代の犠牲者になった人物でもある。

「越後騒動」はかなり奥が深い「お家騒動」です。
今は断片的にしか紹介していませんが、後々詳細をUPしたいと考えています。

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