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小栗吉忠発給文書&年表

小栗吉忠年表

1527年 松平忠吉の子として生まれる。
母の兄である小栗家の叔父、小栗正重の
三河筒針城にて養育される。
通称は「又市」(「一」に非ず)・「仁右衛門」。
松平姓から小栗姓に改める。
幼少時〜
青年時
家康の父、松平広忠に小姓として仕える。
広忠の諱を頂き「吉忠」と名乗る事を許される。
広忠横死後は家康に仕える。
1555年実子、忠政誕生。
通称は「庄二郎」後に「又一」。
母は、石見守某の女。
1560年家康と共に伝楽狭間の戦いに出陣。
家康が尾張大高城に入城した際
織田軍を押さえる。
1562年家康と敵対関係だった東條吉良氏と
藤波縄手にて戦う。槍で戦功を上げる。
1564年三河一向一揆。小栗家は一向門徒だったが、
一族共々筒針城にて一揆軍方佐々木を押える。
1570年今川氏親の拠点だった遠江、掛川城攻めの際
先手として出陣。軍功により同心給
八百二十四貫文の地と同心四十一人を
与えられる。所謂「小栗同心」。

掛川攻めの後、岡崎城の二の丸を守衛する。
この頃、筒針から遠江、中泉に拠点を移し
奉行人として内政に関与する。
1582年武田氏を滅ぼした織田信長が
甲府から遠江に到着した際、三遠奉行、浅井道忠と
共に天竜橋に橋を掛け、更に旅館の修繕を行う。
両人は信長から褒美として禄を与えられる。
1584年 家康と共に信長の接待を受け安土へ赴く。
堺に隠棲していた伊奈忠次に出会い
彼を自分の同心配下に置く。
信長横死後、伊賀越えに従う。
小牧の戦いに従陣。
家康の具足と羽織を軍功として貰う。
1589年 五ヶ国総検地の実施。検地奉行として
小栗同心を従え、中心的な役割を果たす。
1590年小田原攻めの時、老病に罹り乍らも
留守の家康に代わって駿府城の護衛を行うが、
九月十六日に病死。
享年六十四歳。法名「宗善」。
墓は三河宮崎郡の心法寺。
→東京四谷に移転されている

小栗吉忠発給文書一覧

管見な限り彼の発給文書は以下の如くである。追々、発給された経緯も解説していく予定。

1581年(天正9年):
12月28日
遠江国での平野権現社の再建 1583年(天正11年):
12月1日
駿河顕光院への屋敷授与(連署)
1583年(天正11年):
10月6日
石切大工の屋敷安堵と任命(連署) 1587年(天正15年):
3月23日
駿河大石寺への門前諸役免除
1587年(天正15年):
11月11日
大工への人足役免除 1589年(天正17年):
7月7日
七か条定書(合計11通)→詳細
1589年(天正17年):
12月20日
寺社領証文 1589年(天正17年):
12月22日
矢作川船頭給の授与
1590年(天正18年):
1月27日(推定)
松平念誓達への棟別銭請求(1) 1590年(天正18年):
1月29日(推定)
松平念誓達への棟別銭請求(2)
1590年(天正18年):
2月8日(推定)
松平念誓達への棟別銭請求(3)

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